【サン・フランチェスコ聖堂
下聖堂のフレスコ画】
サン・フランチェスコ聖堂
下聖堂の装飾フレスコ画のパノラマ写真
左はジョット派、右はピエトロ・ロレンツェッティ派の「磔刑」が描かれている。左側ジョット派の下段右端には、チマブーエのフレスコ画「天使と聖フランチェスコに囲まれた聖母子」が描かれている。主祭壇の上にある十字架の丸天井に描かれたフレスコ画は、フランシスコの美徳と栄光の聖フランシスコの寓意を表しているが、これらはジョットの流派(またはその弟子)によるものである。
目次
Ⅰ ジョット・ボンドーネ
● [マグダレン礼拝堂の「マグダラのマリアの生涯」連作]
Ⅱ シモーネ・マルティーニ
● [サン・マルティン礼拝堂と聖マルティンの生涯]
Ⅲ ピエトロ・ロレンツェッティ
● [南翼廊のヴォールトの装飾]
ジョット・ボンドーネ
ジョット・ボンドーネ
[マグダレン礼拝堂の「マグダラのマリアの生涯」連作]
[マグダレン礼拝堂の「マグダラのマリアの生涯」連作]
マグダレン礼拝堂のフレスコ画は、ジョットとその助手たちが下の聖堂の他の部分(右翼廊や丸天井など)で行った作業の出発点であったと考えられている。マグダレン礼拝堂のフレスコ画が完成するとすぐに、ジョットとその工房は丸天井の右翼側の装飾を依頼された。この部分には13世紀後半にフレスコ画が描かれており、そこにチマブーエの「天使と聖フランチェスコに囲まれた聖母子」の大フレスコ画が残されていることからもわかる。
マグダラのマリア礼拝堂の西壁
マグダラのマリア礼拝堂の東壁
マグダラのマリアとポンターノ枢機卿
マグダラのマリアにマントを与える聖ゾシマ
ラザロの蘇り
ノリ・メ・タンジェレ「我に触れるな」
天使と語るマグダラのマリア
マグダラのマリア、マルセイユへの航海
[北翼廊の丸天井とヴォールトの装飾]
[北翼廊の丸天井とヴォールトの装飾]
北翼廊を見る(1)
北翼廊を見る(2)
北翼廊のヴォールト
聖母マリアのエリザベト訪問
キリストの降誕
東方三博士の礼拝
神殿にてキリストの奉献
幼児虐殺
エジプトへの逃避
キリスト・エジプトからの帰還
学者たちの中のキリスト
キリストの磔刑
セッサでの少年の死
聖フランシスコがセッサの少年を死から蘇らせる
聖フランシスコが死を暗示する
フランシスコ会の寓意
フランシスコ会の寓意: 聖フランチェスコの神格化
フランシスコ会の寓意: 貧困の喩え
フランシスコ会の寓意: 服従の喩え
フランシスコ会の寓意: 貞節の喩え
キリストの(終末論的)予言
黙示録の騎手1
黙示録の騎手2
黙示録の騎手3
黙示録の騎手4
シモーネ・マルティーニ
[サン・マルティン礼拝堂と聖マルティンの生涯]
[サン・マルティン礼拝堂と聖マルティンの生涯]
サン・マルティン礼拝堂は、下の聖堂の南側の翼廊から出入りできるようになっており、樽型の丸天井で覆われた長方形の部屋で、六角形の後陣には見事なステンドグラスで飾られた3つの大きな二重窓がある。
この礼拝堂のフレスコ画は、アンジュー家の シャルル・ロベール(カーロイ・ローベルト) にハンガリーの王位を譲るためにブダに派遣され、 その重要な役割を果たしたジェンティーレ・パルティーノ・ダ・モンテフィオーレ枢機卿の最後の願いを叶えるために、 ナポリ王ロベルト・ダンジューがシモーネ・マルティーニに依頼した ものである。モンテフィオーレ枢機卿はアッシジの聖フランシスコ聖堂に資金を提供し、1312年には彼の守護者である 聖マルティン に捧げられた礼拝堂を聖フランシスコ聖堂に設けることにしたのである。
1313年から1318年にかけてシモーネ・マルティーニが礼拝堂全体のフレスコ画を描いた。このフレスコ画は、マルティーニの最も重要な作品のひとつである。
サン・マルティン礼拝堂1
サン・マルティン礼拝堂2
サン・マルティンの生涯1
サン・マルティンの生涯2
[礼拝堂の入口アーチと壁に描かれたフレスコ画]
[礼拝堂の入口アーチと壁に描かれたフレスコ画]
聖マルティンは、4世紀にパンノニアで生まれたローマの騎士で、成功した軍人としてのキャリアを捨てて、宗教に人生を捧げた人物である。礼拝堂のフレスコ画は、聖マルティンの生涯にまつわる伝説に忠実に描かれている。
彼の叙任の物語は、自身も騎士であったシモーネ・マルティーニにとって特に大切なものであったかもしれない。
礼拝堂の入り口から始まり、左から右へ、上から下へ、側壁と樽型アーチ型天井には、聖マルティンの生涯の場面がフレスコ画で描かれている。下段には、「マントを分け与える」、「夢」、「騎士になる」「武器を捨てる」、中段には、「復活した子供の奇跡」、「瞑想」、「奇跡のミサ」、「火の奇跡」、上段には、「聖人の死と埋葬」という 最後の2つのエピソードがある。
マントを分け与える
夢
騎士になる
武器を捨てる
復活した子供の奇跡
瞑想
奇跡のミサ
火の奇跡
死
埋葬
後陣のステンドグラス
この礼拝堂の入口アーチの下側には、8人の聖人が4対描かれている。また、礼拝堂の入り口の壁には、礼拝堂の聖別の場面が描かれている。
パドヴァの聖アンソニーと聖フランシスコ
マグダラの聖マリアとアレキサンドリアの聖カタリナ
フランスのサン・ルイとトゥールーズのサン・ルイ
ハンガリーの聖マルガリタと聖エリーザベト
聖人の半身像1
聖人の半身像2
礼拝堂の奉献
下の聖堂の右翼廊側にある聖エリーザベトに捧げられた祭壇の傍らには、聖人たちの群像が描かれている。 これは、アンジュー家とハンガリーとの政治的・宗教的結びつきを表わしたものであり、 フランシスコ会とハンガリー王家との密接な関係によるものである。
左から聖フランシスコ、トゥールーズの聖ルイ、 ハンガリーの聖エリーザベト に続いて、 ハンガリーの聖マルガリタ、ハンガリーの王子ヘンリー、そして隣の壁には 聖ステファン (イシュトヴァーン1世 =ハンガリー王)の息子と 聖ラディスラウス(ラースロー1世=ハンガリー王)と聖母子が描かれている。
聖フランシスコとトゥールーズの聖ルイ
聖エリーザベトと聖マルガリタとハンガリーの王子ヘンリー
聖母子と聖ステファンと聖ラディスラウス
ピエトロ・ロレンツェッティ
[南翼廊のヴォールトの装飾]
[南翼廊のヴォールトの装飾]
サン・フランチェスコ下聖堂の南翼廊は、ヴォールトから床に至るまで、ピエトロ・ロレンツェッティによる受難の場面が描かれている。
南翼廊部分
樽型ヴォールトには、キリストの生涯を描いた6つの物語が描かれており、最初はエルサレムへの入城で、続いて最後の晩餐、足を洗う、キリストの捕縛、鞭打ち、ゴルゴタの丘への道が描かれている。
エルサレムへの入城
最後の晩餐
足を洗う
キリストの捕縛
鞭打ち
ゴルゴタの丘への道
ヴォールトの下の湾曲した壁に、ピエトロは巨大な「磔刑」を描いた。これはルネサンス期以前の群衆のシーンの中で最も野心的なもので、50人ほどの人物が描かれているが、それぞれが明確に区別されている。磔刑の下、目の高さには、聖フランシスコと福音書記者ヨハネの間にいる聖マリアと幼子キリストが描かれている。この絵は壁面に夕日があたる時はことに美しいため、「夕日の聖母」という異名がある。
磔刑(たっけい)
聖フランシスコと福音書記者ヨハネの間にいる聖マリアと幼子キリスト
(夕日の聖母)
ピエトロは、翼廊の南壁に、キリストの死後の出来事を描いた。アーチの上には「辺獄への降下」と「復活」、下の平らな面には「十字架からの降架」と「埋葬」が描かれている。「十字架からの降架」の下には、だまし絵のベンチが置かれた「絵画のような建築物」がある。礼拝堂のフレスコ画は、洗礼者ヨハネと聖フランシスコの間にいる聖母子を描いた三連画を除いてすべて失われている。磔刑像の反対側の壁には聖フランシスコの「聖痕」が見られる。
辺獄への降下
復活
十字架からの降架
埋葬
十字架からの降架と埋葬については、ヨハネの福音書 19:38-42で、こう記述している。 "そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。 それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所に園があって、そこには、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。 その日がユダヤ人の備え日であったため、墓が近かったので、彼らはイエスをそこに納めた。"
絵画のような建築物
洗礼者ヨハネと聖フランチェスコの間の聖母子像
聖フランチェスコの聖痕
チマブーエ
このフレスコ画は、下の聖堂の西側トランセプトの北側にある東壁に描かれている。このフレスコ画は、その制作年代と、19世紀に行われた再塗装後の状態について、チマブエの作品の中でも最も問題のある作品の一つである。年代的には、様式的な理由から、上の聖堂のフレスコ画やルーヴル美術館の聖母像よりも後の作品とされている。
天使と聖フランチェスコに囲まれた聖母子
Source: Web Gallery of Art
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